東海テレビのドキュメンタリー映画はいつも定評がある。
私も過去に一本、『平成ジレンマ』を観た。
今回のカメラの対象は、東海テレビ。自分たちの会社の内部を撮った。
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本作の監督は、東海テレビの圡方宏史さん。上司や同僚にカメラを向ける。
いつもは”撮る側、取材する側”の人たちが、”撮られる側、取材される側”になる。
最初は上司をはじめ同僚からの強い抵抗。
再度説明して、しぶしぶ了解を得て、取材は続き、以下のような事柄を映し出していた。
「視聴率の競争に一喜一憂する中間管理職と現場の姿」
「働き方改革の波で、社員の残業時間の制限が設けられ、漏らされる現場の本音」
「残業時間削減は人不足を招き、中途採用で報道に派遣で入ってきたのは、アイドルオタクの頼りなさそうな新人くん」
「局の看板アナ男性」
この映画のポスターに、彼の茫然自失の顔がアップで使われている。
視聴率競争と、過去に自社が起こした倫理的にもあるまじき問題(参照:セシウムさん事件)のトラウマで
本来の自分らしさが発揮できず、むしろ自分が前に出ることを嫌がっているような弱々しさも映していた。
そして、このドキュメンタリーの芯のような役割を、図らずも果たしていたのが、
「50代の契約記者、澤村さん」。
”Z案件”(上から”是非、取り上げてほしい”と言われたネタ)を、不本意ながらも扱っていた。
実は彼、この報道現場の中で、骨太のジャーナリズム精神を持っている。
住む部屋には本多勝一、鎌田慧などジャーナリズム関連本が並ぶ。
戦中のマスコミが大本営発表に終始していた反省を固持していて、ネタを探す新聞は、中日新聞。
子供達の社会科見学のような受け入れもしている東海テレビ。
報道の役割を三つ、伝えていた。
1.「お知らせする(事実を伝える)」
2.「弱者を助ける」
3.「権力を監視する」
この三つは、他のシーンでもしばしば出てきた・・・
テレビが抱える自己矛盾のなかで、一年で成果が出せず契約解除されるアイドルオタクの新人くんに花束を渡した上司の「卒業」という言葉に、「卒業なんていうオブラートに包んだ表現で済ませていいんですかね」と言い放ったのもまた澤村さんだった。
ラストは、なんだかキツネにつままれたような、撮った人たちのある種の”達観”というか”冷ややかさ”のような眼を感じる、気持ちがまとまらない終わり方。。。
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さて、ここから私の感想。
おもしろかったのだが、一言でおもしろかった、と言い切れない。
これを理解できるほど、私は全然おとなになれてない!
放送作家の鈴木おさむさんがラジオで「いまのテレビの闇を映し出している」と絶賛していたが、
私は、カメラを回す人の、クラゲのような(失礼)、軸のなさが、最後の最後まで気になった。
映し出していたものはたくさんあったが、撮る側の狙いが最後までつかみどころがなかった。
現場でも「何を撮ろうとしているのか」「何がやりたいのか」と詰問されていたのだが、いまひとつわからない。
結局、撮りやすい対象となって、世代や意識の比較が自ずと生まれた、二人の男性が、本作の主人公のような感じに。
アイドル好きの頼りない派遣の新人くんと、気骨があるところが逆に古くて青臭く映る澤村さんだ。どちらも契約社員だ。
局アナの男性の、悩む心情も映しているのだが、個人的には、印象が薄い。ポスターにもなっているのに。
過去の問題(セシウムさん事件)のトラウマで苦悩するこの方に、同業者として多少同情はできても、そんなに共感できなかったこの気持ちはなんだろう。
謝罪するのは、前に出るアナウンサーだ。SNSなどで誹謗もされる。
前に出る者の宿命でもあるけれど、つらい。
なにかこう、まっすぐに入ってこない違和感の原因は、どこにあったのだろう。
現場の人たちは「組織の人間」という”人種”になっていて、視聴者とはそもそも相入れない意識を、感じた。
違和感の原因のもうひとつは、私にある。
真のジャーナリズム、これからのジャーナリズムのあり方をあまりにも青臭く、真剣に、うだうだ考えすぎてきたことによる。
図らずもいつのまにか、青臭さの極みにいて、実際にマスメディアの報道現場にいる方々との乖離を見せつけられ、ある種の絶望を感じたのだと思う。
彼らには「志」のようなものが欠けていると思ってしまった。
報道に求められる、事実を公正に伝えることとか、弱者の味方とか、権力の監視とか、東海テレビがあたりまえのように掲げる三本柱。
それらの、拠って立つ精神の部分が、わからないのではないか?と。
だから、クラゲみたいになれちゃうのだ、と。
定点カメラで撮って、何も脚色もせず、そのまま撮ったものを提示するのが真実だというなら、それはあまりに浅い。
撮った方々が恣意的なことはしたくなかっただろうことは、よくわかる。
けれど、撮る者のスタンスや届けたいメッセージが決まっていなければ、結局、多く何かを語ったり、映像として少しでも際立つものだけが、見る人の意識を奪うにすぎない。
志や、真のジャーナリズムについて居酒屋で熱く語る澤村さんは、浮いて見られていることも、この映画でわかった。
私の思想は澤村さんとはたぶん真逆だが、澤村さんのような人がいるだけ、東海テレビの報道の質は担保される気がする。
「組織人間」の中に流れる無意識の意識、も気になった。
自社の現場にカメラをむける勇気は買うとしても、組織の論理に挑んでいるようにみえて、
その組織に守られている。寛容な会社だ。
待てよ。それも狙いか?
契約社員の本音しか撮れないから、こうしたのか?
カメラをまわしている期間中に、セシウムさん事件を思い出してしまうようなひやっとしたミスがあった。
こんなミスが散見されるとしたら、私が確信するその一因は、志の低さじゃないだろうか。
ラジオで圡方さんが、おそらく会社の上司は映画の反響の大きさを知らないし気にしていない、と話していた。
その理由を、東京は意識の高い人が多く、名古屋は気にしなければ気にならない(という表現ではなかったが)、都会と地方の違いにある、ような説明をしていた。
でも、上司は「とるに足りない映画」だと思っているから、なのかもしれない。
クオリティーもメッセージ性もそんなにない作品だと思っている、かもしれない。
澤村さんが撮っていたら、もっと社内で問題になって、目くじら立てられていたかもしれない…契約記者だけど。
ラストは、不可知論に逃げる現代の日本のジャーナリズムを象徴するような、撮った人たちの、自分たちにも向いているような失笑がきこえるようで、少々気味悪ささえ、感じた私は、本当に、蒼い!苦笑
以上
2020年1月11日渋谷ユーロスペースにて鑑賞